3.11と映画と自分 : 3.11,film and myself

 とある空間とそこに依存する(依存しているとは気づかない)自分との亀裂。その気配。どうにもならない、お びえるしかない状況というもの。いつもの日常というものが、少しずつずれていって、それがいつのまにか自分の存在までも消し去ってしまうような何ものかの 突然すぎる出現。それに対して日常を取り戻そうと何かをしても、それはすでに遅すぎていて、何も抵抗をすることもなく消えていってしまうような、恐ろしく も儚い日常。なにかがおこっていることを認識しているのに、それがいつおこるのかはわからない、という確定的な偶然性。だけど、なにも変わらない地球、そ の自転、そして時間。 

  そして私たちの視線。不審者が男と女に何をしたかは全く問題にしない一方で、視線の食い違いやお互いが見ているものの違いが、別離や乖離をうむ一方 で、同じ空間への視線の統一性やその重なり合いは、(たとえそれが猟奇的であってもいびつな、邪悪な)愛を生んでしまうのではないか。ただ見つめ合うだけ では、相手の顔を見ているだけでは、何も生まれない。それはサヨナラだけの人生でしかない。同じなにかを見つめなければ本当の愛は生まれない。隣で、近く にいることの存在感と、両者の見る景色、つまりは世界が豊かさにつながるのではないか。それは映画観客の体験そのものであろう。同じ画面を、同じように複 数で見つめている、その感覚こそ、あの時間体験こそ、最も私がよく知っているように、愛に満ちた素敵な瞬間なのである。

“CONVERSATION” (by kenmap44)

Martha Marcy May Marlene Movie Trailer Official (HD) (by ClevverMovies)

“Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?”

 

I watched this film today. It was amazing. it looks like the drawing of Paul Gauguin. “Where do we come from~”

映画の作り自体は至極シンプルで、それによってより一層この映画の画面たちの織りなす世界が、未見の未知の世界として、その広がりを拡張しているようだった。ときどきドキッとするショットがあったけれど、全体的にはとても、どちらかというと「絵画的な」感じだった。
まずこの映画をみて思ったのが(自分のなかでは大学での学習のほぼ原点といっていい、)ゴーギャンの『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』を、そのまま映画にしたようだということでした。というか監督の意図とか真実はどうであれ、もう間違いなく描いてしまっている。
まずはっきりとした台詞は「martha, Where are you going?」という叫び。その主人公であるマーサはどこから来たのかも、そして詳しく何者かであるかも明かされない。そしていったいどこへ行くのかもわからぬままパチっと終わる
そして衣一枚、あるいはもうほとんど裸と表象していいレベルかもしれないけれど、”どこか、あちら側”の住民(特に女性)は、”こちら側の、あるいは観客側”と比べて、性と生のパワーをはっきりと増幅し始めている。
果たして『我々』って何?という漠然として、そして人類が問うべき問いに答えらているわけではないものの、いくらかのヒントを絞り出そうとしているような気がしました。彼らは「飛ぶ」。映画も時間軸を飛ばす。またマーサは執拗にも「水」にまとわりつかれる。泳ぐ。漏らす。作る。そして「重力」。
重力=この地球に「在る、いる」ということ。そして「生、性」(内なる人間)の爆発(ぐちゃぐちゃ)は、かのベーコンの肉の塊のようであるかのように、人間の実体をも爆発(つぶして、ぐちゃぐちゃに)させてしまう。
人間は生きているだけで、痛々しい。というか、むしろ滑稽なんでしょうね。痛々しさはよくわかったけれど、一方のその滑稽さというものがいまいちこの映画では伝わらないような気もしましたが、いや、そんなことないのかもしれない。滑稽な歌を唄ってたし、滑稽な盗みもやってたし(石投げてた)。
野生性という単純な、あるいはサイコという乱暴なくくり方をされてたまるものですか!といいたい映画でした。久しぶりに集中して見れた気がします
音楽もよかった。海もすごみがあった。
それにしてもあの女優いい味だしてたなぁ。ブラックスワンを余裕で凌駕しているような気もする。

映画の作り自体は至極シンプルで、それによってより一層この映画の画面たちの織りなす世界が、未見の未知の世界として、その広がりを拡張しているようだった。ときどきドキッとするショットがあったけれど、全体的にはとても、どちらかというと「絵画的な」感じだった。

まずこの映画をみて思ったのが(自分のなかでは大学での学習のほぼ原点といっていい、)ゴーギャンの『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』を、そのまま映画にしたようだということでした。というか監督の意図とか真実はどうであれ、もう間違いなく描いてしまっている。

まずはっきりとした台詞は「martha, Where are you going?」という叫び。その主人公であるマーサはどこから来たのかも、そして詳しく何者かであるかも明かされない。そしていったいどこへ行くのかもわからぬままパチっと終わる

そして衣一枚、あるいはもうほとんど裸と表象していいレベルかもしれないけれど、”どこか、あちら側”の住民(特に女性)は、”こちら側の、あるいは観客側”と比べて、性と生のパワーをはっきりと増幅し始めている。

果たして『我々』って何?という漠然として、そして人類が問うべき問いに答えらているわけではないものの、いくらかのヒントを絞り出そうとしているような気がしました。彼らは「飛ぶ」。映画も時間軸を飛ばす。またマーサは執拗にも「水」にまとわりつかれる。泳ぐ。漏らす。作る。そして「重力」。

重力=この地球に「在る、いる」ということ。そして「生、性」(内なる人間)の爆発(ぐちゃぐちゃ)は、かのベーコンの肉の塊のようであるかのように、人間の実体をも爆発(つぶして、ぐちゃぐちゃに)させてしまう。

人間は生きているだけで、痛々しい。というか、むしろ滑稽なんでしょうね。痛々しさはよくわかったけれど、一方のその滑稽さというものがいまいちこの映画では伝わらないような気もしましたが、いや、そんなことないのかもしれない。滑稽な歌を唄ってたし、滑稽な盗みもやってたし(石投げてた)。

野生性という単純な、あるいはサイコという乱暴なくくり方をされてたまるものですか!といいたい映画でした。久しぶりに集中して見れた気がします

音楽もよかった。海もすごみがあった。

それにしてもあの女優いい味だしてたなぁ。ブラックスワンを余裕で凌駕しているような気もする。

ジオラマ。

「人間はばかげたイメージ=ジオラマにとりつかれて殺し合いまでしてしまうほど安っぽい。だが、その安っぽさを真摯に生きることのなかからしか、人間という存在の愛おしさは生まれてこない。だからジオラマ的な現実の外側を生きることを夢見るのではなく、ジオラマの内側にあえて立ち、そこから想像力を働かす術を学ばなければならない。」(長谷正人、『写真空間2』「ジオラマ化する世界2」)ディズニーランドも、美術館のお土産売り場も、そうだ。想像力を歓喜させ、楽しむための、そう楽しければいいのだという空間が用意されている。そう、いいのだ。ベンヤミンはアウラなき時代を否定するのではなく、むしろ肯定的に、大衆の想像力を働かせることによる新たな可能性というものを「想像」し、見出している。その通りかもしれない。ジオラマ化する社会だといえど、そこでの想像力ひとつで大きなうねりを感じ、創造していけるのだ。植田正治という写真家は、人為的な構図と演出によって写真を楽しんでいるからこそ、50年近く過ぎ去った今でさえも色あせない、あの新鮮な写真を産み落とすことが出来たのだ。演出という想像力で、嘘のない現実を映し出す。「ジオラマの内側にあえて立ち、そこから想像力を働かす術」を見出した植田の姿が、あの砂丘の上に想い浮かべることができるのではないだろうか。そして今だからこそ、僕たちはその写真にノスタルジーよりも、どこか特別で自らの存在を揺り動かす何者かを感じ取るべきなのだ。

ジオラマ。

「人間はばかげたイメージ=ジオラマにとりつかれて殺し合いまでしてしまうほど安っぽい。だが、その安っぽさを真摯に生きることのなかからしか、人間という存在の愛おしさは生まれてこない。だからジオラマ的な現実の外側を生きることを夢見るのではなく、ジオラマの内側にあえて立ち、そこから想像力を働かす術を学ばなければならない。」(長谷正人、『写真空間2』「ジオラマ化する世界2」)

ディズニーランドも、美術館のお土産売り場も、そうだ。想像力を歓喜させ、楽しむための、そう楽しければいいのだという空間が用意されている。そう、いいのだ。

ベンヤミンはアウラなき時代を否定するのではなく、むしろ肯定的に、大衆の想像力を働かせることによる新たな可能性というものを「想像」し、見出している。その通りかもしれない。
ジオラマ化する社会だといえど、そこでの想像力ひとつで大きなうねりを感じ、創造していけるのだ。

植田正治という写真家は、人為的な構図と演出によって写真を楽しんでいるからこそ、50年近く過ぎ去った今でさえも色あせない、あの新鮮な写真を産み落とすことが出来たのだ。

演出という想像力で、嘘のない現実を映し出す。
「ジオラマの内側にあえて立ち、そこから想像力を働かす術」を見出した植田の姿が、あの砂丘の上に想い浮かべることができるのではないだろうか。そして今だからこそ、僕たちはその写真にノスタルジーよりも、どこか特別で自らの存在を揺り動かす何者かを感じ取るべきなのだ。

Pina - Trailer (by HopscotchFilmsEnt)

日常の目でしてとらえられない何物か(自らは演じることを意識することのみによって出現が可能になる身体。演じる意識の不在を自らでは認められないような身体。)の存在が確実にあるという積極的な思いを どこからか、感じ取ることこそ、人間存在を愛する第一歩になるのだと思う。