3.11と映画と自分 : 3.11,film and myself
とある空間とそこに依存する(依存しているとは気づかない)自分との亀裂。その気配。どうにもならない、お びえるしかない状況というもの。いつもの日常というものが、少しずつずれていって、それがいつのまにか自分の存在までも消し去ってしまうような何ものかの 突然すぎる出現。それに対して日常を取り戻そうと何かをしても、それはすでに遅すぎていて、何も抵抗をすることもなく消えていってしまうような、恐ろしく も儚い日常。なにかがおこっていることを認識しているのに、それがいつおこるのかはわからない、という確定的な偶然性。だけど、なにも変わらない地球、そ の自転、そして時間。
そして私たちの視線。不審者が男と女に何をしたかは全く問題にしない一方で、視線の食い違いやお互いが見ているものの違いが、別離や乖離をうむ一方 で、同じ空間への視線の統一性やその重なり合いは、(たとえそれが猟奇的であってもいびつな、邪悪な)愛を生んでしまうのではないか。ただ見つめ合うだけ では、相手の顔を見ているだけでは、何も生まれない。それはサヨナラだけの人生でしかない。同じなにかを見つめなければ本当の愛は生まれない。隣で、近く にいることの存在感と、両者の見る景色、つまりは世界が豊かさにつながるのではないか。それは映画観客の体験そのものであろう。同じ画面を、同じように複 数で見つめている、その感覚こそ、あの時間体験こそ、最も私がよく知っているように、愛に満ちた素敵な瞬間なのである。

